ずいぶん前の話になるが、ロンドンへ行った際、探偵小説の神さまコナンドイル作品の主役シャーロック・ホームズの住み古していたと仮定されたベーカー街を歩きまわり、それらしき場所を探し当てたけれど、たいして感慨も涌かなかった。すぐ間近のマダムタッソー館に立ち寄った。これもまた話で聞いたほどには興味をおぼえなかった。一歴史上の著名な人物(善悪を問わず)の蝋人形がずらりと並んでるだけで、似てれば似てるほど現実感が薄らぐ感じで、ほとんどは素通りしてしまう。
素通りせずに、ちょっと立ちどまって、見上げたのはヒッチコックの像だけだった。ヒッチコックといえば彼の作った映画はほとんど見ている。わけても強烈な印象を受けたのは名作『鳥』である。
「あれは烏じゃなかったかしら」
とよく想い出ばなしの中で訊かれるが、「あれは違いますよ」と即座に否定する。
「鴉なんかじゃない――全然、別の鳥が主として使われていますよ。――いかにも、ヒッチコックらしい着想で、さすがスリラー映画の名監督だけのことはあるが、あれは鴉じゃない――ほんとうに鴉を使ったら、もっと凄い出来栄えだったろうと思うが。――鴉はあれほど馬鹿じゃないからね」
そういいながら、私は必然的に、今村昌平監督の『楢山節考』を想い出さずにはいられなかった。というのは、あの映画にはとても沢山な鴉が使われているからだ。
原作の『楢山節考』(深沢七郎作)は、いわゆる「姥捨山」が主題であり、現代の高齢化社会の福祉政策というものをも再考しなければならぬ問題作である。
僻地の貧しい集落などでは姥捨ては当然襲ってくる問題であり、老耄の労働力低下、再生産にあずからぬ穀潰しは生活共同体から排除されねばならない当然の倫理である。
七十歳になると楢山参りをしなければならぬということは荘厳な儀式として代々受け継がれてきている。
おりんはその日の来るのを待っている。憧れというと、やや大げさの表現になるが、あこがれに近い気持で待ち続けている。倅辰平の方は決心しかねてオドオドしたり渋りがちであるが、母おりんは息子を励まし、何一つ手落ちのないように用意万端ととのえて待ってるのだ。
いよいよ当日が来ると(むろん夜中である)、おりんは、ぐずついている辰平をひきよせ彼のしょっている背板に乗って、ぴったりと体をつけた。
くらやみの山道を一歩一歩辿ってゆく。

峠を越え、谷をわたり、尾根をつたって七谷までくると、目の前にそそり立ってるのが楢山で、それが死に場所と決められていた。
山を覆う楢林の間に、岩肌が点綴して、ここかしこの岩場には、それにもたれるようにして、白骨化した死体が数多く目についた。
鴉の群れが夥しい。
背負われたおりんは、もっと先へ先へ手を振って無言で辰平を促し続け、手ごろの岩が目につくと足をバタつかせて、ここで降ろせと強請するのだ。
背からおりたおりんは、敷かれた筵の上にすっくと立ったまま、手を出して辰平の手を握りしめ、それと同時に辰平の身体を今来た方角に向かせた。そして、いきなり辰平の背をどしんとついた。
こうした場合、辰平はふりむくことができない。ふりむかないことが山の掟だから――。その山の誓いに従って、辰平は歩きだすほか仕方がなかった。
だいたいこんな風に、村のおきてに忠誠な母と子が描かれ、きびしくも哀しい情景がいっそう煽られるのは、カラスの登場によるものであろう。
こうした残酷なフィナーレの小道具に鴉が用いられるのは、鴉にはちょっと気の毒であるが、鴉としては自然の習性に従っているだけのことで、それが人間的倫理と一致しないからといって、責められるべきではないであろう。鳥葬という考え方は人間側のひとりぎめにすぎないのだから。 楢山節のいわゆる姥捨的老人の自決行為が、その最後を鳥葬によって処理されるとは限らない。
楢山詣りの際は「雪が降ってくれれば幸だ」ということにもなっている。それは吹雪の中で凍死する場合もあるからだ。
鳥葬になる前に絞殺してやる配慮もあったに違いない。断崖から突き落とす例もある。
しかし、とにかく夥しい鴉の群れによって見るからに凄惨酷烈な情景を呈するのは、楢山詣りの自然的解決だと考えるほうがふさわしいのかもしれない。だから、鴉は凶鳥であり不吉な鳥だということになってしまうのである。
それはそれとして、映画『楢山節考』を撮影するにあたっては、楢山を覆うスゴイ鴉の大群をどうやって動員するか――監督は一千羽は無理だろうが、五、六百羽ぐらいのカラスは、ぜひ確保しなければならぬという。その五百羽を集めるのに、裏方はすごく苦労することになる。
一羽だって、そう手軽には捕まらない鴉だ。それが五、六百羽となると無理な注文である。いろいろと思案投げ首で、この手はどうだろうとの発想にもとづいて、先ず豚を一頭犠牲にしてロケで決めている現場(ある信州の過疎村)の谷底へ臓物ごと散らかして谷底に投げ込んでおく――。そうすれば、その死体を目ざして鴉の群れが当然集まってくるに違いない、という目算だった。
ところが、ただの一羽も寄ってこない。
ということは、鴉から、こっちの腹がすっかり読まれていたことだ。ふだん、そのような素晴らしいご馳走があるべきはずのない所に在るということは何かそこに、それなりに理由があるに違いない。仕掛けのワナにうっかりはまるなという警戒信号が鴉仲間に発令されていた、と見るべきだろう。
さて、第二の方法として考え出されたのは夜間は鴉の天敵であるフクロウ二羽を昼間地上につないでおいて、鴉の攻撃目標としておく。夜行性のフクロウのために、しばしば夜襲をかけられて、ダメージを受けている鴉は、復讐のために必ずやってくるだろうと魚網30メートルをフクロウを狙ってきた際、鴉を一網打尽すべく張って待っていた。第一回は成功したが、二度目は絶対にカラスはよりつかなかった。
あの手この手と策を弄したがいずれも失敗。結局、鴉捕獲器(ブラック・ボックス)を採用することになった。
これは、大型の黒い箱を作り、その中に囮を一羽入れておく。仲間がいると気をゆるし鴉は入ってくる。箱の中に入ってくるのは容易だが、飛び出せないように作ってある。これは新宿御苑の発案によるものであって、今までの仕掛けよりは、かなり有効であって、忽ちのうちに1ダース以上の鴉を捕獲することができた。
しかも、それも最初のうちだけで、二回目からは捕獲数は激減した、といわれているが、とにかく、ブラックボックスを各地に仕掛け、鴉を生けどることになった。

新宿御苑、明治神宮、浜離宮、秩父、信州各地で、この方式を試みた結果、どうやら五百羽近い鴉を苦心さんたんの末、捕獲することができた。
それからがまた問題であった。
鴉を撮影現場で飛ばせるという段になると、映画的効果を主眼としなければならない関係上、飛ばせ方にもいろいろと工夫を凝らさなければならない。その上、現場の周辺の農協や果樹園からの苦情も無視できない。四苦八苦のすえ、ようやく妥協ができて、やっと映画本来の仕事にとりかかることができた。ほんのひとこまにすぎない場面に、そんなに苦労してまで、鴉を登場させねばならなかったのか、絶対に鴉の場面が必要だった。鴉という添加剤を使わなければ『楢山節考』という映画そのものがボヤけてしまう。つまり、それほど密接に人間世界の生死が鴉と係わりあいをもっていることに、われわれは呆れてしまうのである。

