
もうひとつ、黒のミステリーについて思いうかべるのは奥秩父の長瀞である。
あそこは地質学的にも特殊な所であって、単なる観光以上のものを含んでいる地域だが、私はそればかりでなく、鴉がいっぱいいるので、それに惹かれて、何回か出かけ、たいていはn・ペンションに1、2泊することになる。
そこのオーナーの女性が、どういうわけか、鴉好きなので、おのずから私とは親しい間柄となった。
たしか、私が秩父市郊外の画廊「ぎゃるりい鴉」で、私の鴉絵展を開いた際、いち早く『宇宙を呑みこむカラス』を、挨うようにして持っていったのが長瀞から来たペンションのオーナーだった。『宇宙を呑みこむカラス』なんていささか気負った画題だし、こんな作品はだれの関心も惹かないだろうと画廊の隅っこに隠すように置いてあったのを、彼女はまっさきに目をつけ手に入れてしまった。23、4の女性にしては珍しいと思わざるを得ない。
あとで画廊の受付けで聞いてみたら、彼女は混血だという。なるほど、混血だから日本の女性とは何か違ったものの見方をするのかもしれない。
彼女のペンションは、十把ひとからげに民宿なみに扱われているけど、二階の各室はホテル級のちゃんとした建築であって、居心地がすこぶるいい。
この辺一体の鴉の動きが手にとるようにわかるのがその部屋の最も気に入った理由だった。鴉好きの彼女がすすめるだけのことは確かにあった。客のいない時はその部屋が彼女の居室みたいになる。彼女自身の部屋は階下のカウンター寄りにあるのだが、二階のここが鴉と遊ぶには好適だ。ここだと顔見知りの鴉たちが、一羽一羽かわるがわる彼女に挨拶にくるのだという。全くその通り、鴉の出入りはひんぱんだった。
都心でも鴉はよく見かけるが、こんなに近々と顔を見合わせてご対面するのは珍しい。
それも出窓の手すりにとまるだけであってそれ以上、室内に入ってくることはない。ちゃんとマナーを心得ている鴉たちである。
オーナーといってもまだ小娘で、混血には美人と多いといわれるが、彼女もなかなかの器量よしである。
「美人だと、鴉にもてるんだね」
「違うわよ――私のほうが鴉好きだからよ」
彼女はさらに続けた「私は人間が好きだったんだけれど、ここに移り住むようになってから、だんだん人間が嫌いになってきちゃったの。ハーフというと、どうしても差別されているって被害意識が出てくるのかしら? 鴉には差別感がないでしょう。だから、その文だけ鴉が好きになってくるのは仕方ないでしょう。鴉は黒い不吉な色をしているけれど、よく見るとこざっぱりしてあっけらかんとしていて、とても公平でこせこせしない。そういうところが大好きなの。長くつきあっていると鴉って、すごく魅力的な鳥ね。妖精のようなところもあるし――」

それから彼女はひとつの人形をとりだした。
「私はこれを『黒い妖精』と呼んでいるの。――それは秩父市外の別所で、ほら、『ぎゃるりい鴉』の画廊で人形展があった時、『カラス』と題名のついてるこれを買ったの――すてきでしょう」
なるほど「それが鴉」と、私は手にとってみた。手づくりの、普通の西洋人形である。よく見かける外国製の骨董人形とは違っていて、なぜかちょっと不気味な人形である。へんに生々しい顔をしてどこかに息が通っているような感じだ。
「鴉って顔じゃないでしょう。すごく綺麗な貴族のお姫さまみたいな顔してるけど――。これを作った人形師は中年婦人なの。そのひとは言いました。これは『夢魔』で有名なスイスの幻想的な画家ハインリヒ・フュースリの描いたソフィアの横顔から暗示を得て作った顔なの。80歳のフュースリが、ひそかに恋していた若い娘(実はすでに人妻)ソフィアに、ちらっと悪魔的な呪いめいた哀しさを描き添えたので、それが効果的な印象を与えたといわれている。――その真似をして鴉の顔を仕上げたんだって説明したのよ。私はフュースリなんて知らないけど、この人形が大好きよ」
黒いタフタ(薄い絹)とか、天鵞絨を適当にあしらって人形の衣裳にしてあるのが、それに包まれると不思議によく似合い、鴉といわれてみると、なるほどこれが鴉かと項突かせるものがあるのだ。
「そして、その鴉人形は因縁つきなの」
混血の彼女は、この地区の女の子たちとはいくらか発想が違う気がするので、彼女のいわゆる因縁とは何か見当がつかなかった。
昭和58年8月の台風5号が奥秩父でどんなに猛烈だったか――。その際の出来事だったという。なにしろ、彼女のペンションは河を庭にしているような立地条件だったので、荒川が氾濫したら手のつけようがなかった。彼女は豪雨と強風の中を命からがら避難した。重要な実印だとか証書など、貴重品はそのまま家に置き放しにして、手にしていたのはあの鴉人形『黒い妖精』だけだったという。
2日前から台風来襲予報もあって、泊り客は全くなかったので、要するに身ひとつで逃げだすだけのことだった。幾度かころびながらも、やっと安全地帯へ脱出することができた。
しかし、ハッと気がづいた時は、もうあの鴉人形『黒い妖精』とはぐれてしまっていた。どこで、手放したのか、烈風にもぎとられたのか全然おぼえがない。
聞いてみると黒い人形みたいのなのが荒川の激流の中でモミクチャになっているのを岩畳の上から見かけたというひとや、とろ場で浮かんでいる黒いのがそれじゃなかったかなどといろいろだった。
「でも鴉人形は溺れ死ななかったことはお分かりでしょう。こうして私が抱いているんだから」――と混血娘は得意気だった。「宇宙を呑みこむ鴉だもの、台風ぐらいじゃ歯がたたないわねぇ」
つまり『黒い妖精』は台風一過のあと、ほんものの鴉が鴉人形が、とろ場の岩かどにひっかかっていたのをすくいあげて、ペンションまで届けてくれたのだという。
鴉たちは、鴉人形が、混血のオーナーといつも一緒にいるのをそのつど見かけているし、記憶力は抜群だし、これは持ち主の所へ届けるべきだという(そのくらいの抽象思考は当然できるから)その考え通りにしただけである。
ずっと昔、中国の梁の武帝時代、「孝思賦」に『慈烏反レ哺以報レ親』とかかれていて、「哺とは口の中で反芻した食物のこと、雛鳥のとき親から口移しに食物を与えられたから、こんど親が年老いたら、子供の方から口移しにして親を養う」という意味で、つまり鴉にだって反哺の礼があるのだからとその孝をたたえているわけだ。鴉には恩を忘れない習性があるのだから、混血娘と仲よかった鴉たちが『黒い妖精』を彼女に返してやったのはあるいは当然なことかもしれない。
鴉を人間の倫理観で規制するのは無意味だと思うけれど、鴉は不潔な生きものときめて「鴉の行水」などという言葉が一般化している。カラスはちょっぴり水面を掠める程度でことをすますと決めている。これも実際はむしろ逆であって、鴉本来の習性は大変奇麗好きだといわれ、水を浴びるにしても「鴉の行水」どころかかなりながながと沐浴しているのが常だ。
鎌倉の扇ヶ谷に住む知人の庭には池があって、あのへんは木立ちの繁みの深い所だから鴉の数も多く、しばしばその庭に鴉が水浴びにやってくる。それを見ていると「鴉の行水」なんて全く人間側の勝手な悪口にすぎないことがわかる。鴉はいちまいいちまい翼を洗いきよめるのだから15分ぐらいはかかるだろうと言っている。「隠言の手引書」によると、悪いこととなると、「鴉」の符牒を用いることが多い。たとえば、あいつは「鴉」だというと「詐欺師」だということになる。