渡辺啓助の部屋
本館
拾之巻 神にも屈しなかった鴉のヴィセンテ
九之巻 ノアの方舟の水先案内
八之巻 死の画家が尊敬する相棒
七之巻 ミシュレが見かけた鴉教授
六之巻 倫敦塔に住む六羽の鴉
五之巻 日本にみる鴉信仰
四之巻 ゴッホの傑作「鴉の居る麦畑」
参之巻 黒の内部に秘められた美
弐之巻 アラン・ポーの長詩『大鴉』
壱之巻 誰でも一度は鴉だった
第一別館
拾五之巻 『楢山節考』の鴉の群れ
拾四之巻 名作『月山』の人間鴉
拾参之巻 鴉にだまされた美女
拾弐之巻 黒い妖精を拾った鴉
拾壱之巻 鴉の黒への偏愛

dare_p013  たとえば世界的に有名なアラン・ポーの長詩『大鴉レエベン』にしても、最初は鴉ではなく鸚鵡おうむを使うつもりであったらしいが、それが鴉を主題にすることに改められた、と伝えられている。
これはポーの愛妻レレアにささげられた幻想的な華麗妖美な詩であるために、最初は美しい鸚鵡を思いついたのかもしれないが、しかし大鴉レエベンに代えたのは、当然そうあるべきであった。黒い大鴉を配することによってこの詩の真価が鮮烈に発揮され、その心霊的な怪奇美が、そくそくとして胸に迫るのである。
dare_p014あの怪奇な大鴉の啼き声 never more(ねばアもア)の繰り返しリフレインは和訳するにはもったいないほど読むものの耳を捉えて放さない現実味リアリティがあった。
あの場合、深夜の鴉はきっとあんな風にねばアもア、ねばアもアと不気味に啼いたに違いない、と思いこんでしまうのだ。

鴉に限ったことではないが、鳥の啼き声など聞くものの立場――その環境風土や心理的状況によっていろいろと違ってくる。
中学校に入った当初(13歳頃)、私は英語で鴉の啼き声を学んだ。すなわちコオカドルドウといって啼くのだそうだ。それを日本語に訳すと「結局、どうでもいい」という意味になると上級生から教えてもらった。
特派記者として私が北京に行った際、北京の鴉はどういうふうに啼くかを聞かされた。
光棍児好遇クワンゴンルハオグオ――と啼くのだと言う。
北京語を和訳すると「風来坊は気楽さ」という意味になるらしい。
鎌倉の扇ヶ谷に住んでいる「鴉の会」会員の話によると、あの辺にはまだ開発されていない森や林が多く、鴉のベッドタウンになっていて鴉たちの会話を耳にすることは珍しくない。
その用語の二、三を記すると、
「クワッテニシヤガレ」(日本語)
「クワ・セヴ」(やあ、きみか?――フランス語)
「アイ・ドント・ノウ」(英語)
といったたぐいである。どこまで信じていいか戸惑うけれど、あの会員の話が嘘っぱちとは思えない。

dare_p016私の住んでいる田園調布の近くに宝来という名のみの小公園がある。このへんはかつては物静かな高級住宅地と伝えられたが、今では少しずつ何かを失いつつあるかのごとく見え、どことなくうらさびしいたたずまいの緑地帯になってしまった。やはりどうしようもない時代の推移であろうか。その一画に辛うじて残っているのが宝来公園である。さすがにここだと木立ちの陰も深い。私は散歩がてらこの公園の鴉を見るために時々やってくる。
このへんでは鴉をまのあたり見ようとすれば宝来公園ぐらいしかないのかも知れない。
その公園と地続きのアパートに住んでいる知人から、鴉の停まる特定の樹があると前々から聞かされていた。しかし、いつもとは限らない。全然鴉の姿など見かけず、野良猫ばかりが足もとにまといつく時だってあるという。その友人は、私の期待が大きすぎることを恐れてか、用心深くことわりを言っていた。
ところが私が宝来公園に行くときは、必ずといっていいくらい、鴉が来て待ち合わせるようなぐあいになるのだ。
dare_p017「先生のことをきっと、鴉の方じゃ、自分の身内だと思ってるんじゃないかしら?」
と私の知人は真顔になって樹上を見あげる。
「それは誤解だろうが、誤解にしても嬉しい誤解だ」
こちらもこうなると、多少親近感をおぼえるのもやむを得ない。
「今、鴉が鳴いたろう、――ほら、くゥるゥるゥあゥあゥゥって」
友人は聴耳をたてて、私の啼き方を真似して、鴉の啼き声を合わせようと試みた。
私はシートン動物記の受け売りをして言った。

「今の鴉語を日本語に訳すと『私はあなたを愛します』ということになるらしいよ」
「嘘ッ」
私の若い知人は疑わしげに眉をひそめて私をなじった。
「いや、決して嘘じゃない――」
私はむしろ昂然として答えた。
「しかし、鴉に愛されてるからって、悪のりしちゃいけない。じゃ、あの鴉を飼ってみようかなどという安易な気持ちは絶対に起こさないことだ」
要するに、鴉とのコミュニケーションは、受けとり側としての人間の思考とうまく噛み合うかどうかは、とても面白いだけに難しいことでもある。人間側としても大いに勉強しなければならない時点に来ているようだ。

keisuke006