
あの声は寂寥を食べて生きてきたのだ
誰でも一度は鴉だったことがあるのだ
これは先年病死した村上昭夫の詩集、『動物哀歌』に入っている「鴉」という詩の冒頭部分である。
前世が蛇であったとか、狐、狸、犬、熊であったとかいうよりも、「鴉であったのだ」とハッキリ宣言されると、奇妙なようだが、なんとなく納得してしまう。現実的な感じがするのだ。
なぜそう感じるのだろう?
おそらく何千年何万年も前から、鴉と人間との雑居生活が続いているからであろう。しかも、鴉は絶対に人間のペットにはなりたがらない。犬、猫のように人間の好みに迎合しようともしない。卑屈なご機嫌とりはしない。自由な生き方を好む。
しかし、人間好きで人間との雑居生活を一番愛しているらしい。
しかも知能指数は全動物を通して抜群であり、生命力が強く、平均寿命は人間の二倍はたしかだという。
そうなると人間の前世は鴉であったといわれても人間側としてはさして抵抗はないような気がするのだが、そのなかに嬉しいような悲しいような、いろんな気持ちが混じりあった現実性がある。
『動物哀歌』の著者たる村上昭夫を知ったのは十年以上も前のことになるが、それは詩人村野四郎を通してであった。私は一回だけ、「詩の教室」のお手伝いをすることになった。村野四郎といえば、当時詩壇では大御所的存在で、村上昭夫の第一詩集『動物哀歌』に推薦の序文を書いている。
「私はこの詩集に、啄木より、賢治よりもっと心霊的で、しかも造形的な文学を見る」
私は忽ち、この『動物哀歌』に熱中した。動物哀歌は同時に人間哀歌でもあるのだ。頁をめくっているうちに「鴉」に突き当ったのである。
誰でも一度は鴉だったことがあるのだ
この一行は深く私の胸に突き刺った。より深い所から噴きあげてくる哀しみの風が、ある爽やかさを伴って私を掠めていった感じであった。
『動物哀歌』と同じ頃読んだのが『ロマネスク彫刻』(アンリ・フォション著、辻佐保子訳)である。その第八章「変身」を読んでゆくと次のようにしるされてあった。
私たちは草木や小鳥から隔てられてはいない。なぜなら、かつてはそのいずれかであったのであり、やがてはその一方になるであろうから。
更に言う。
――私たちは自然のすべてに参与しており、不安定な人間、あるいは束の間の均衡を保つ人間は、何かの始まりというよりは、単なる継続にすぎないことになる。
つまり、人間は前世では鴉であったかもしれないし、来世には鴉になるかもしれない、という因縁である。
どうも、鴉は人間にとって一種の身内なのであろう。一般に鴉なんて人間の意識の中ではもっとも遠い存在のようでありながら、実はこの密着度が濃厚な鳥なのである。
好き嫌いはともかくとして、人間の居る所には必ず鴉が同居しているし、鴉の居ない所には人間の姿も見当らないという現象は否定しがたい事実である。
