渡辺啓助の部屋
本館
拾之巻 神にも屈しなかった鴉のヴィセンテ
九之巻 ノアの方舟の水先案内
八之巻 死の画家が尊敬する相棒
七之巻 ミシュレが見かけた鴉教授
六之巻 倫敦塔に住む六羽の鴉
五之巻 日本にみる鴉信仰
四之巻 ゴッホの傑作「鴉の居る麦畑」
参之巻 黒の内部に秘められた美
弐之巻 アラン・ポーの長詩『大鴉』
壱之巻 誰でも一度は鴉だった
第一別館
拾五之巻 『楢山節考』の鴉の群れ
拾四之巻 名作『月山』の人間鴉
拾参之巻 鴉にだまされた美女
拾弐之巻 黒い妖精を拾った鴉
拾壱之巻 鴉の黒への偏愛

keisuke002

あの声は寂寥を食べて生きてきたのだ

誰でも一度は鴉だったことがあるのだ

dare_p009  これは先年病死した村上昭夫の詩集、『動物哀歌』に入っている「鴉」という詩の冒頭部分である。
前世が蛇であったとか、狐、狸、犬、熊であったとかいうよりも、「鴉であったのだ」とハッキリ宣言されると、奇妙なようだが、なんとなく納得してしまう。現実的な感じがするのだ。
なぜそう感じるのだろう?
おそらく何千年何万年も前から、鴉と人間との雑居生活が続いているからであろう。しかも、鴉は絶対に人間のペットにはなりたがらない。犬、猫のように人間の好みに迎合しようともしない。卑屈なご機嫌とりはしない。自由な生き方を好む。
しかし、人間好きで人間との雑居生活を一番愛しているらしい。
しかも知能指数は全動物を通して抜群であり、生命力が強く、平均寿命は人間の二倍はたしかだという。
そうなると人間の前世は鴉であったといわれても人間側としてはさして抵抗はないような気がするのだが、そのなかに嬉しいような悲しいような、いろんな気持ちが混じりあった現実性リアリティーがある。
『動物哀歌』の著者たる村上昭夫を知ったのは十年以上も前のことになるが、それは詩人村野四郎を通してであった。私は一回だけ、「詩の教室」のお手伝いをすることになった。村野四郎といえば、当時詩壇では大御所的存在で、村上昭夫の第一詩集『動物哀歌』に推薦の序文を書いている。
「私はこの詩集に、啄木より、賢治よりもっと心霊的で、しかも造形的な文学を見る」
私は忽ち、この『動物哀歌』に熱中した。動物哀歌は同時に人間哀歌でもあるのだ。頁をめくっているうちに「鴉」に突き当ったのである。

誰でも一度は鴉だったことがあるのだ

  この一行は深く私の胸に突きささった。より深い所から噴きあげてくる哀しみの風が、ある爽やかさを伴って私を掠めていった感じであった。
『動物哀歌』と同じ頃読んだのが『ロマネスク彫刻』(アンリ・フォション著、辻佐保子訳)である。その第八章「変身」を読んでゆくと次のようにしるされてあった。

私たちは草木や小鳥から隔てられてはいない。なぜなら、かつてはそのいずれかであったのであり、やがてはその一方になるであろうから。

  更に言う。dare_p011

――私たちは自然のすべてに参与しており、不安定な人間、あるいは束の間の均衡を保つ人間は、何かの始まりというよりは、単なる継続にすぎないことになる。

  つまり、人間は前世では鴉であったかもしれないし、来世には鴉になるかもしれない、という因縁である。
どうも、鴉は人間にとって一種の身内みうちなのであろう。一般に鴉なんて人間の意識の中ではもっとも遠い存在のようでありながら、実はこの密着度が濃厚な鳥なのである。
好き嫌いはともかくとして、人間の居る所には必ず鴉が同居しているし、鴉の居ない所には人間の姿も見当らないという現象は否定しがたい事実である。

keisuke003 keisuke004 keisuke005